翌日。日常が戻ってきたことを実感しながら学校に行き、授業を受け、放課後になった。 校舎を出る前にイオと会って軽く挨拶を交わして、いつも通りダイチと共に学校を出る。 昨夜は早めに寝たものの、主に深夜の電話のせいで眠りは浅く、 今日は寄り道せずに帰ることにした。 ダイチと別れて1人で自宅までの距離を歩いていると、 まるで俺が1人になるのを見計らっていたかのように、背後から声が掛けられた。 「すまない。司 皓稀くん、で間違いないだろうか」 聞き覚えのある声に振り返って、俺は名を呼びそうになるのを堪えるために、ぐっと口を閉じた。 今は無き1週間で随分世話になった女性、ジプスの局員、迫真琴――マコトさんだ。 服装はジプスの制服ではなく、女性政治家に見られるような質素なスーツ姿だった。 タイトスカートにストッキングにヒール。その姿は新鮮だ。 ジプスの制服のスカートも似たようなものだったが、イメージが変わるものだなと思いつつ、 俺は慎重に相手の出方を窺った。俺を見るマコトさんは初対面の時のように厳しい表情で。 多分、ダイチ達と同じように記憶は無いんだろう。 先ほどの問い掛けに対して頷く俺に、マコトさんが用件を口にした。 「私は迫真琴。政府の関係者だ。 突然で済まないが、これから君に、ある場所まで同行してもらいたい。 今、全てを説明することは出来ないが、身の安全は保障する」 マコトさんは相変わらず生真面目だった。台詞は怪しすぎたが。 ある程度見当がついている俺としては素直に従ってもいいという気持ちもあったが、 そうすると逆に不審に思われるかもしれないと、こんな風に答えてみた。 「知らない人にはついていくなって子供の頃から言われてますので」 マコトさんは困惑気味に眉をよせた。 俺の言葉に最もだと感じたのかもしれないが、 任務に忠実なマコトさんは何かを躊躇いがちに口にしようとしたようだ。 それが実際に俺に届くことは無かったが。 「君に拒否権は無い」 凛と響く声。 マコトさんが振り返り、息を呑んで「局長」と呟く。 道路の曲がり角から姿を現したのは、俺に深い傷を刻んだ張本人――峰津院大和。 ヤマトもスーツ姿だった。 何を着ても様になるなと、どうでもいい感想を抱く俺の目前までヤマトが歩み寄る。 そして、耳元で囁いた。 「穏便に事を運ぶ機会を拒絶したのは君だ、従って貰うぞ、コウキ」 決定打だ。ヤマトは俺を憶えている。きっとあの審判の日々も。 それよりも、いちいち耳元で囁くのは止めて欲しい。 ぞく、と震える身体を抑え込むように拳を握りしめ、俺はヤマトを一度睨みつけ、 諦めるように大きく溜息を吐いて、わかりましたと答えた。 俺に会う為に組織まで動かしたヤマトに、降参したと言ってもいい。 住宅街から大通りまで徒歩で移動すると、一台のリムジンが停車していた。 促されるままに先に後部座席に乗り込む。 マコトさんは助手席へ、ヤマトは俺の隣へ乗り込み、ドアが閉まり発車した。 聞きたいことは山ほどあったが、今ここで聞く気にはなれず、俺は黙ったまま目を閉じた。 時折、助手席から視線を感じる。マコトさんも俺に対して何か思うところがあるんだろう。 局長直々に出向くほどの人物、というのが今の俺への認識だろうけど。 後悔しても遅いが、昨晩、あの電話に出るべきだった。 間違いなくあれはヤマトが掛けてきたものだったんだろう。 これからヤマトは俺をどうする気なのか。 僅かな不安を感じていると、リムジンはいつの間にか国会議事堂へと到着していた。 国会議事堂の地下、ジプス東京支局へと通される。 俺にとってはもう馴染み深い施設、大人しく先頭を歩くヤマトの背を眺めながらついていくと、 エントランスでヤマトが立ち止まり、振り返った。 「迫、全ての検査終了後、彼を私の部屋へ」 マコトさんにそれだけ命じて、ヤマトは俺には特に何も言わずその場を立ち去った。 「では、こちらへ。今からいくつか君のデータを取らせてもらう。 健康診断のようなものだ、時間はとらせてしまうが… 詳細は局長から聞いてくれ。その、色々と済まない」 マコトさんが申し訳無さそうに告げてくるので、俺は気にしていないという風に笑って見せた。 「……私は君と何処かで出会ったことがあるだろうか。何故か懐かしい気がする」 可笑しいな、と柔らかな声でマコトさんが微笑む。 マコトさんの中にも確かに何かが残っていると分かって嬉しくて、実は俺もと冗談交じりで返した。 案内されたのは、ポラリスの審判が始まってから4日目に健康診断を受けた場所だった。 そこで待っていたのは柳谷乙女―オトメさんと、菅野史―フミだった。 どちらも記憶は無く、初めましてと自己紹介をした後に検査が行われた。 簡単な問診、身長、体重、視力及び聴力の検査。胸部エックス線、血圧の測定、 採血、心電図、あとは良く分からない検査がいくつか。 多分この中には霊力を測定するものもあるんだろう。 フミの目がちょっと怖い。実験動物にでもなった気分だ。 「へぇ〜、局長がお出迎えしたわけだ。 ん、でも、これだけの数値弾き出してるのに今まで引っかかんなかったのが謎。 イキナリ湧いて出たってカンジだね」 フミがパソコンの画面を食い入るように見つめながら呟く。 「本当ね。コウキくん、だったわね、 これまでに何か不思議なものを見たり聞いたりしたことはないかしら?」 オトメさんがフミの疑問を引き継ぐ形で俺へと質問した。 何となく意図は読めたが、今はそんな経験は無いと答えておいた。 ポラリスによる審判が始まるまでは、実際に妙なものに遭遇したことはないので嘘ではない。 そう、とオトメさんは小首を傾げたが、それ以上は追及されなかった。 結構な時間が経って、検査は全て終了した。オトメさんとフミにお疲れと声を掛けられる。 ほっと溜息を吐くと再びマコトさんが姿を現した。 疲れているだろうが、と気遣われながら退室を促されて、 俺はオトメさんとフミに軽く会釈して、歩き出すマコトさんの後に続いた。 ジプスの通路を歩く。エレベーターを乗り継いで、多分最深部に到着した。ここに来るのは初めてだ。 「この先が局長の私室だ。では、私はこれで失礼する」 マコトさんはそう言って、俺を残して立ち去ってしまった。 これからヤマトと2人きりで会う、それが何を意味するのか。 深呼吸を1つ。ポラリスに謁見する時よりも緊張していることに苦笑いを零して、 俺はヤマトの私室へと向かった。 重厚なドアを2回ノックすると、入れという声が聞こえた。 ドアを開け、部屋に足を踏み入れる。 そこには見知った黒いコート、ジプスの局長服に身を包んだヤマトの姿があった。 「自己紹介は必要か?」 からかい混じりの声に、俺は「いらない」と簡潔に答えてヤマトに近付いた。 改めて向かい合う。記憶のままのヤマトの姿。 自分よりも少しだけ背が高く、僅かに見上げなければいけないのが悔しい。 色々と思うところはある、それでも今は。 「…ヤマト。また会えて、良かった」 素直に自分の気持ちを伝えて笑った。ヤマトは目を見張った後、口角を上げた。 「そうだな」 ヤマトの同意の言葉にとりあえずは満足する。 部屋に入ってすぐに目に付いた向かい合わせのソファーの片側に座ると、 ヤマトも反対側に腰を下ろした。 「……ヤマトは全部、思い出したのか?」 聞きたいことを頭の中で整理しながら、まずはそう確認してみる。 こうしてヤマトと2人で会うまでに、いくつか疑問が生まれてしまった。 だからポラリスとの謁見前に交わした約束、ヤマトの真意を問い質すのは、 全ての疑問が解決してから、一番最後でいい、そんなことを思いながら。 「その様子では君も問題ないようだな。 昨日の時点では断片的だったが、一晩経て全ての記憶を取り戻した」 「そっか。俺も同じだ」 ヤマトからはっきりと、あの日々を憶えていると告げられて、俺の口元は自然と綻んだ。 記憶を持っているのが俺だけじゃなくて良かったと。 「ダイチとイオは記憶は無いみたいだった。 マコトさん、オトメさん、フミも憶えてないみたいだったけど…」 「ああ、報告は受けていない。多少の変化は見られるが、 現時点では記憶を保持しているのは私とコウキ、君だけのようだな」 一先ずあの8日間の記憶の確認を終えて、俺は居住まいを正した。 「じゃあ本題に入るけど。昨夜、電話かけてきたの、ヤマトだよな?」 「フフ…気づいていながら通話を切るとはな」 「お前が黙ってるからだろ。 俺の携帯番号は、ヤマトなら簡単に調べられたんだろうけど、 ならなんで普通に会いに来ないんだよ。家だって調べたんだろ?」 俺が気になっているのはヤマトが一般人である俺をジプスに連れて来たこと。 ジプスは隠された組織で、それは世界が復元された今も変わらないだろう。 あの審判の日々を憶えているといっても、俺とヤマトだけで、 何か理由でもない限り、一般人の俺をここに呼ぶことなんて出来ないはずだ。 正面のヤマトと視線を合わせて、俺は返答を待った。 ヤマトは俺の考えを見透かすように目を細め、笑みを浮かべる。 「昨夜、既に君をジプスへと招く準備は整っていた。 君の意思に関わりなくだ。既に個人間の問題ではないのだ。 ジプスには、基準値を超える魔力を保有する人物を感知する装置が存在する。 元々は悪魔の現出を感知する為のものだが、危険という意味では無知な人間も含まれる。 昔は稀にそうした人間が現れ、保護したという記録も残っている。 昨日、その装置が君の存在をジプスに知らせた。何の兆候もなく、だ。 突如現れたと言ってもいい。この時点ではまだ違和感を覚えていただけだったが、 感知された魔力、それに触れて、私は思い出した。コウキ、君の存在を。 そして、君も記憶が戻ったのだと確信した。 これは推察になるが、元々君には潜在的な力はあったのだろう。 その力が、あの戦いの日々を経て磨き上げられ、最終的に私と比肩するまでに成長した。 世界の復元により、君の能力はポラリスの審判が始まる前の状態に戻ったわけだが、 記憶と共に経験も取り戻したということだな。 コウキ、君の存在は既に脅威だ。ジプスとして放置できん。 ジプスの人員は各界の優秀な人間をスカウトすることで構成されている。 たとえ君の記憶が戻らずとも、潜在能力がある以上、数年後にはリストに上がっただろうな。 いずれにしても、ジプスからの接触はあったということだ。 君をここへと招き、検査を受けさせた意図は理解したな?」 ヤマトの長い説明を聞き終え、俺は口内に溜まった唾液を飲み込んだ。 「…つまり、スカウトってことか?」 絞り出した俺の言葉に、ヤマトは満足げに頷いた。 「無論、意思は尊重する。だが最低限の訓練は受けてもらうことになる。 復元されたこの世界では、現在の君の状態では雑霊どもの格好の的になりかねん。 皮肉なものだな。日常への回帰を望んだのだろうが、お前自身の能力の開花がそれを許さん」 俺にそう告げたヤマトの声には複雑な色が滲んでいた。 ヤマトにとっては俺の変化は喜ぶべきことでも、俺にとってはそうではないのだろうと案じるような。 勝手な思い込みかもしれないが、もしそんな風に感じてくれているなら嬉しい。 出会った頃と比べて、ヤマトは変わった。 実力至上主義という所は変わらなくても、他人の感情を少しは気遣えるようになった気がする。 俺はスカウトについて真剣に考える。すぐに出せる答えじゃない。 「分かった、訓練は受ける。でもジプスに入るかどうかはまだ決められない。 大学に行って勉強したいって気持ちもあるから」 だから俺は、今の素直な気持ちを言葉にした。ヤマトの目を真っ直ぐに見て。 「そうか。知識を得るという意味での進学ならば、無駄ではない。 未来の選択の1つにジプスが含まれているならば、今はそれで良しとしよう」 ヤマトは俺と視線を合わせて、そう言ってくれた。 本心は他にあるのかもしれない、それでも。 言葉通りに意思を尊重してくれたヤマトに感謝を込めて、俺はありがとうと口にした。 「それにしても、存在が脅威とか…俺ってそんなにやばい状態なのか?」 先ほどのヤマトの説明で引っ掛かった点を改めて聞いてみる。 ヤマトは意地悪げに口端を上げながら言う。 「君が不用意に近付くだけで、その力に中てられて悪魔の封印が解けかねない程度には」 「…浅草のハクジョウシの時みたいな?」 「その件は、封印を施していた装置にどこぞの馬鹿者が接触した為と聞いているが、 そうした装置に触れずとも、だ。現状を認識したか、コウキ?」 ヤマトから容赦ない現実を告げられて俺は渇いた笑みを漏らすしかなかった。 とりあえず何事も起きてなくてよかった。 今の俺は悪魔召喚アプリも無いし、霊力が高かろうと普通の一般人だ。 俺みたいな人間が何も知らずにふらふらしているというのは、確かに脅威と言われても仕方ない。 「気付かなかったようだが、昨日から君は監視対象になっている。 仮に悪魔の封印地へ近付こうとしていたなら、その前にジプスの手で君の身柄を確保し、 我々は1日早く、対面していただろうな。私としては、それでも問題無かったが」 追加でそんな事実まで知らされて、俺はがっくりと項垂れる。 本当に平凡な毎日とは離れてしまったのだと実感が湧いてきた。 それでも、全ての記憶があることに後悔は無かったが。 フフ、と笑うヤマトは上機嫌だ。 「安心しろ。帰りに東京の主な封印地は知らせておく。監視も解こう」 その言葉に俺は心底ほっとして、深く息を吐き出した。 「さて、私からは以上だ。他に何も無ければ迫を呼ぶ、訓練の詳しい日程も迫から説明させよう」 ヤマトが話は終わったとソファーから立ち上がるのを見て、俺はハッとする。 やっと現状の確認が済んだだけで、一番聞きたいことがまだ残っている。 寧ろ、ここからが俺にとっての本題だ。 ヤマトも俺と同じように記憶は全て取り戻したと言っていた。 それなら、あの約束のことも憶えているはず。 俺から問い質さない限り、ヤマトから話す気は無いということだろうか。 ふと、このまま、あの出来事を無かったことにして、 改めてヤマトと友達として付き合っていく可能性を考えて――――即座に否定した。 俺はそれを望んでいない。どんな答えだったとしても、無かったことになんて出来ない。 例え、あの出来事が世界の時間軸から既に消えたものだとしても、記憶がある限りは、 自分にとっては現実に起きた出来事だ。ヤマトだって……それは望んでいない気がする。 だとすると、問われているのは俺の覚悟なのかもしれない。 ヤマトという人間に踏み込む覚悟。ヤマトとこれからも関わっていく覚悟。 一度目を閉じて心を落ち着かせ、俺はヤマトの名を呼んだ。 ヤマトが俺の傍で立ち止まる。俺もソファーから立ち上がり、見つめた。 「記憶、全部取り戻したって言ってたよな」 「ああ」 「それなら…約束も、憶えてるんだろ?聞かせろよ。何で、あんな真似したんだよ」 ヤマトの前で、あの出来事を思い出す。一方的な性行為、身体を暴かれた痛み。 震えそうになるのを拳を握りしめることで耐える。 そうだ。俺はヤマトの暴挙を許してはいないけど、それでもこうして記憶を持ったまま、 ヤマトと再会出来たことを喜んでる、その理由を今、再認識した。 俺は、ヤマトが好きだ。友達としてじゃなくて、多分、恋愛感情に似た意味で。 睨みつける勢いでヤマトと視線を合わせていると、ヤマトは獰猛な笑みをその顔に浮かべた。 『…やっぱり、俺を逃がすつもりなんて、無かったんじゃないか』 内心で呟く。ヤマトはその口をゆっくりと開いた。 「――あの夜、お前と2人で過ごす時間がこれで最後なのだと気付いた瞬間、私は考えた。 果たして、どれだけ私の存在がお前に刻まれているのだろう、と。 私自身には、コウキ、お前の存在が深く刻まれていた。あの敗北は、既に癒えぬ傷。 だが、意味のある傷だ、恨んではいない。その傷が記憶保持の道標となる確信があった。 ならば、お前にも傷を刻めばいいと。言い訳はしない、我ながら下種な行為だった。 あの時は、ただそれだけの感情で、お前に触れた。触れて……自覚した。 お前に、狂おしいほどの欲を感じた。お前を暴きたいと、犯したいと。 不安が無かったとは言えない、お前だけでなく私自身も記憶の忘却を恐れた。 だからこそ、確かなものが欲しかった。お前に傷を刻むだけでなく、自分自身にも。 その結果、お前が私に憎しみを抱いても構わないと思った、強い感情が私に向けられるのならば。 そう覚悟していたが……お前は、ただ理由が知りたいのだと憤っただけだったな。 あの場で洗い浚い話すことも出来たが、話さなかった理由は、 それがお前の道標になるのでは、と考えたからだ。 お前にとって私の存在が取るに足らぬものであるならば、あのような問い掛けは無かっただろう。 お前の中にも私への強い感情があるのだと、思えた」 一息にそこまで言葉にしたヤマトは、拳を握る俺の手を取った。 触れられて、ひくりと震える俺に構わず、ヤマトは俺の右手を捧げ持ち、手の甲に唇を落とす。 「コウキ。私がお前に抱く感情が何かは解らない。 恋情、愛情、欲情、名付けたいならば、お前が好きに名付ければ良い。 それらを全て含めた何か、なのかもしれない、初めて抱く強い、情だ。 無体を強いた自覚はあるが、謝罪はしない。私にとっては必要だった。 お前を犯すことで、お前への情を理解したのだから」 ヤマトの言葉は心臓に突き刺さるようだった。どこまでも攻撃的なヤツだと思う。 これが俺の知りたかった理由。きっと言葉にすれば陳腐で、でも大切な何か。 きっとヤマトが抱く想いは俺が抱くものと似ていて、 もしかすると俺よりもずっと強いのかもしれない。 俺は笑った、笑えた。一度深呼吸して、ヤマトに答える。 「ヤマトの記憶が無かったら、気象庁目指すか、とにかくどんな手を使ってでも、 お前を見つけて、一発殴ってやるんだって考えてた。 あんなことされて、二度と会いたくないって思うのが普通なのに、 俺は、お前に会いたいって思ったんだ。今だって許してない、 謝られたって、はいそうですかって許せるわけじゃないから、謝られたら殴ってたかも。 あの時のお前は許せないけど、今こうして向き合って、 隠さずに全部伝えてくれたお前を受け入れることは、出来るよ。 ……まぁ、精神的に、であって、身体の関係となると、話は別だけど」 そこまで言って、口を閉じる。ヤマトは数度瞬いて、俺との距離を僅かに詰めた。 「私が、怖ろしいか?」 「…俺に何やらかしたか、自分の胸に手を当てて考えれば解るだろ」 右手はヤマトに取られたまま。 ヤマトは俺の怯えを知りながら、じりじりと近付いてくる。 これはまずいと身体が強張る。本当に嫌なら手を振り解いて逃げればいい。 それが出来ないのは、怖れていても、嫌ではないから。何かを期待しているから。 ヤマトにはそんな俺の気持ちも伝わっているんだろうか。 息が触れるほどの距離、俺の手を解放したヤマトが、頬を両手で包んでくる。 上向かされて、何をされるのか、流石に分かった。 「何も告げぬまま、唇に触れるべきではないと思った。お前が拒まないなら続けるが?」 そんな風に俺に逃げ道を与えて、ヤマトの顔が至近距離に迫る。 俺は、目を閉じた。閉じて、しまった。 温かくて柔らかい感触が唇に触れる。ちゅ、と何度も啄まれて、食むように深く重ねられる。 呼吸する為に薄く開いた口の中へ熱く濡れたものが潜り込んできて、 ヤマトの舌だと理解したのは、拒むことも出来ずに隅々まで丁寧に舐られた後だった。 身体が震える、それが恐怖からでない事には気付いた。 キスは平気なんだとぼんやり思う。あの時にされなかったからだろうか。 ヤマトの唇が離れた時には息が上がっていた。 瞼を開くと、ヤマトの熱の篭った視線とぶつかる。 唾液塗れだろう俺の唇を、ヤマトが親指で拭う。 「お前に癒えぬ傷をと望んだのは私だが、触れられぬのは辛いな」 「自業自得じゃないか」 ヤマトが零した言葉に思わず突っ込む。 眉を寄せたヤマトは、俺の背中に腕を回して力任せに抱き締めてきた。 密着する身体に無意識に身体が震える。 ああ、本当にトラウマみたいになってるんだと、俺はヤマトの腕に軽く爪を立てた。 「…克服する気はないか?」 「え?」 「傷を刻んだのは私だ、ならば、その傷を癒すのも私の役目だろう。 お前が私を受け入れるというのなら…今度は忘れられぬぐらい、悦くしよう」 試してみないか、そう、ヤマトに耳元で囁かれて、ぞくんと身体に痺れが走った。 恐怖なのか、期待なのか。 判らないまま、ヤマトの腕の中で答えを探す。 「―――俺は、」 >「やっぱり、まだ、無理だ」 >「いつまでも、こんな傷、引き摺りたくない」