―――――お前に、消えることのない傷を刻みたい 衝動的に俺は目の前のテーブルに突っ伏し、額を思い切り打ち付けた。 ゴン、と良い音が店内に響く。 遅れて、ずきずきと額が痛み出す。目尻に涙が滲んだ。 「おっ、おいコウキ!急にどうしたんだよ!?」 「司くん、大丈夫…?」 同席していた2人、ダイチとイオが心配そうに声を掛けてくる。 「……………耳レイプされた」 思わずそう呟いた俺の声を拾ってしまったダイチが、 「いっ、何言っちゃってんのコウキぃぃ!!」 などと控えめに叫んだ。イオはちょっと困った風にダイチを宥めている。 客もそれなりに入っているファーストフード店、確かに騒ぐのは良くない。 ゆっくりと顔を上げると、目の前に2人の顔。 4人掛けの席、ソファーをダイチとイオに譲り俺は向かいの席に1人座っている。 模擬試験を終えた帰りの地下鉄のホームで、ダイチの憧れの女子、新田維緒と出会い、 既視感を覚えながらも意気投合し、3人でどこかでお茶でもしながら話そうと、 目に付いたファーストフード店に入り、今に至る。 そう、既視感。当然だ。イオと出会った所までは既に経験済みで、 俺達はあの1週間を、侵略者「セプテントリオン」、悪魔との戦いの日々を、 共に生き抜いた仲間であり、親友のダイチは勿論、 イオも既に大切な友達になっていたんだから。 ああ、思い出した。思い出せた。感慨を抱きながらも2人の様子から、 思い出したのは今の時点では俺だけなのだと分かって少しだけ寂しさを感じたが、 2度目の地下鉄でのやり取りを振り返ると、僅かな変化があったことに気付いた。 あの1週間の経験によるものなのだとしたら、嬉しい変化だ。 1つ、試してみようと俺はイオに視線を向けた。 「新田さん」 「えっと、何?司くん」 「コウキでいいよ」 「えっ?」 「その代わり…じゃないけど、イオって呼んでもいい? 初対面で馴れ馴れしいかな」 「こっ、コウキ!おまっ、ずる…じゃなくてっ!」 俺の突然の申し出に、驚いたのかイオは胸元に手を当てて目を丸くしている。 ダイチの反応は想像通りなのでスルーしておく。 少しして、イオが微笑む。 「うん、いい…よ。あのね、不思議だけど、私もコウキくんって呼びたかったの」 その答えに俺は満足する。以前は控えめな性格で、意思表示も上手くできなかった。 物怖じせず自分の気持ちを素直に伝えるイオの姿は、あの戦いの日々での成長の証に見えた。 「…なぁ、コウキ。新田さんと話すの初めてとか言ってたけどウソだろ」 俺とイオとのやり取りが気になったのか、ダイチがジト目で聞いてくる。 折角なので背中を押してやることにした。 「羨ましいならダイチも呼んでもらえば?ね、イオ」 「うえぇえっ!?」 「あ、うん。…ダイチ、くん?」 「ほら、ダイチ」 「おおお、おまえねっ、なんつーことをっ……―――い、お……って ダメだっ心臓もたねーっ!!…やっぱ新田さん、で…」 「情けないな、ダイチ」 「俺の心臓はお前と違ってデリケートなんだよっ!」 「ふふっ、あの、私もやっぱり、志島くんって呼んでいいかな?」 「もっ、勿論!呼びやすい方でっ!!」 ダイチもあの1週間で頼もしくなったと感じていたが、 こういう所は相変わらずで、逆にほっとして笑ってしまった。 ―――本当に、世界の復元を選んで良かった。 2人と話していると心が温かいもので満たされていく。 先ほどの俺の奇行には触れずにいてくれる2人に感謝しながら、 俺はとりあえず問題の記憶の1つに蓋をした。 避けては通れない記憶だが、悩むのは1人になってからでも遅くない。 今は、ダイチとイオ、2人と過ごす時間を大切にしたかった。 そうだ。あの1週間の記憶を取り戻せたのは良かったが、 どうして初めに思い出すのがアイツの問題発言なんだ…! ファーストフード店を出た後は夕方になるまでウィンドウショッピングを楽しんで、 また3人で遊びに行こうと約束し、携帯番号を交換してイオと別れた。 ダイチと2人で会話しながら帰路につく。交わす話の内容は今までと何も変わらない。 流行の物、好きな女子、ゲームのこと。今日はイオの話で盛り上がっていた。 興奮気味のダイチに時折相槌やツッコミを入れながら歩いていると、ダイチの家が見えてくる。 ダイチが自宅のドアを潜るのを見送るのもいつも通り。 また明日な、そう言ったダイチがふと動きを止めて、俺をじっと見てきた。 「…どうした、ダイチ?」 問い掛けると困ったように頭を掻いて、口籠った後、 「なんかさ、うまく言えねーけど…俺、お前と友達で良かったっつーか、 …あ〜っ!何言ってんだ俺っ!」 そんなことを言ってきた。俺は思わず噴き出す。 「わっ、笑うなよ、ちくしょーっ!」 「――っっ、だって、今更だろ?俺も、ダイチと友達で良かった。 これからもよろしくな、ダイチ」 「お、おう…っ!!」 笑いながら右手を差し出せば、ダイチも笑顔で俺の手を握り返してきた。 ダイチ自身、記憶が無くても何か感じるものがあるのかもしれない。 あの1週間でダイチには、ここぞという時に助けられた。 特に大きいのが仲間が実力主義と平等主義で二分する中、ダイチが提示した第三の道。 ダイチの言葉が無ければ、この未来は無かった。 感謝してるし、誇らしくも思っている。照れくさくて直接伝えたことはないが。 例え記憶が戻らなくても、ダイチとは長く付き合っていける、 そんなことを思いながらダイチと手を振って別れた。 帰宅する。あたりまえに自分の家があることに感動を覚えた。 出迎えた母親のお決まりの小言も、父親からの無言のプレッシャーも、 温かい夕食も、全てが一度は失ったものだと思えばありがたく感じる。 風呂に入って今日は早めにベッドに横になった。 自分のベッドで眠るのも1週間ぶりなんだと思えばすぐにでも目を閉じたくなったが、 この瞬間まで頭の隅に追いやっていた問題がそれを許さなかった。 記憶が蘇った時、周りに誰もいなければ、絶対に叫んでいた。 耳元で囁かれた言葉、濡れた感触、痛み。 男に、ヤマトに犯された、その記憶を何よりも先に俺は取り戻した。 ポラリスやセプテントリオン、悪魔との戦いの日々を思い出したのはその後だ。 俺にとってはアイツとの出来事が一番衝撃的だったらしい。 峰津院大和。政府機密機関ジプスの局長で、俺より1つ年下の男。 少なくとも俺は、戦友と呼べる仲にはなっていたと思っていた。 そんな相手に俺は強姦された。 そうだ、あれは間違いなく強姦だ、レイプと呼ばれるものだ。 男の俺が男に、なんて考えもしなかった。それも、それなりに好意を抱いていた相手にだ。 屋外で、背後から壁に押し付けられて、何が起こったのか解らなかった。 俺はあの時、明日にはポラリスに挑むという前夜、 最後にヤマトと2人で話せたことに満足していた。 ヤマトとの命がけの戦闘の後、ヤマトが抱いてきた世界への憤りに触れて、 それでも協力をと望んで手は取ってもらえた。 ヤマトが掲げた実力主義への想いの深さ、 それを踏みにじったことに対する複雑な自分の感情が何なのか判らないまま、 ヤマトをもっと知りたいと思って、忘れたくないと伝えた。 俺の気持ちをヤマトは受け入れてくれて、嬉しかった。 だから、その直後に襲った出来事は、俺を混乱させるには充分で。 性的な意味で他人の手が自分の身体に触れてくる、そんな経験は初めてだった。 下肢を撫でられ、直接握りこまれて、扱かれた。 手袋を着けたままの手のひらは体温を感じられなくて、滑りも悪くて最初は痛いだけだった。 それも、ずっと続けられれば自身から零れるもので濡れて、気持ちが良くなってきて怖くなった。 俺の変化に気付いたヤマトが喉の奥で笑うのが聞こえて、身体が震えた。 口では嫌だと言いながら、ヤマトの行為を受け入れているようで悔しかった。 結局、ヤマトの手の中に吐き出して、強張っていた身体から力が抜ける。 拘束されていた腕が解放されて、逃げるなら今だと頭では理解していても動けない。 そのままヤマトは俺の尻に触れて、信じられない場所に指を入れてきた。 本来は排泄に使われる場所、そこへヤマトの指が潜り込んでいる。 そこでやっと、ヤマトが何をするつもりなのか、解った。 本気で男の俺を、犯すつもりなんだと。 ろくな抵抗もできないまま、俺はただ、考えていた。 どうしてヤマトがこんなことをするのか。 俺に負けた腹いせだとか、そうした理由でないということは、短いつきあいだが分かる。 ヤマトには好かれていると思っていた、それも間違いではないだろう。 1つだけ、ある可能性を考える。でもヤマトに限って、とすぐに否定した。 ヤマトは俺に傷を刻みたいと言った。消えることのない傷を。 確かにこの方法なら俺の心身に傷をつけるだろう。 なんで、ヤマトは俺を。 ぐるぐると考えているうちに、体内を掻き回していたものが出て行き、 代わりにひたりと酷く熱いものが押し付けられた。 振り返って確かめることは出来なかった。 直後に、肉を裂かれるような痛みが俺を襲う。 本当に痛かった。苦しかった。ヤマトは好き勝手に動く。俺の身体を揺さぶって、抉って。 痛みだけならまだ我慢できた。 力なく揺れていた俺の中心を握りこんで、俺に快楽まで与えてきた。 ヤマトに貫かれている内部も、熱と痛みだけでなく、妙な痺れも感じてきて。 2度目の吐精、漸くヤマトの猛りが引き抜かれて、尻に熱く濡れた感触を感じて。 その時の俺は怒りよりも遣る瀬無い気持ちで支配されていた。 気付いてしまったから。ヤマトを好きな気持ちの中に友達以上のものが含まれていることに。 だから、俺の意思を無視しての行為に腹立たしさよりも、悲しみが勝った。 こんな気持ちがなければ、ヤマトを一発殴って、それで終わりだった。 俺の気も知らず、ヤマトは身形を整えて、俺のどろどろになった下肢も一通り拭って、 何事も無かったかのように俺の足首に絡まっていた下着とズボンを引き上げた。 立っていられなくなって地面に座り込みそうになった身体をヤマトが受け止める。 その気遣いが、ますます俺の心中を乱す。 痛みを訴えると、『常世の祈り』という最上級の回復スキルを惜しげもなく使う。 下肢の鈍痛は呆気なく消えうせ、僅かな不快感を残すだけになって、 俺の身体を傷つける意図が無かったことは、その時解った。 肉体に受けた傷は治っても、心に受けた傷は、簡単に治りはしなかったけれど。 何故と理由を問い詰めた俺にヤマトはこう言った。 『理由か。知りたいならば、世界復元後に、私を問い詰めるといい。その時は、答えてやろう』 不確かな約束。でもそれは、俺がヤマトに望み、俺自身も望んだことに繋がった。 『全部憶えていたい。勿論ヤマトにも、俺の事、憶えていて欲しい』 じゃあヤマトは、俺にヤマトを忘れさせない為にこんな真似をしたのか。 もしそうだとするなら、とんでもない賭けだ。 俺が普通にヤマトの事を友達だと思っていたら、こんなことをされて許せるはずが無い。 記憶を取り戻したとしても、ヤマトには二度と会わないだろう。 でも現実は違う。ヤマトとの行為を思い出した上で、会いたいと思っている。 そして約束通りに理由を聞きたいと。どんな理由だとしても、ヤマトの口から、 あんな暴挙に出た理由を語ってもらわなければ気が済まない。 ヤマトは俺のこんな気持ちまで見透かしていたのか。 そこまで考えてふと、ヤマトは記憶を取り戻したんだろうかと考える。 ここまでやっといて記憶が無かったら、どんな手段を使ってでも探し出して一発殴る。 そう心に決めた。相手は機密機関のトップだ、簡単で無い事は分かっているが。 ごろりと横を向いて身体を丸めて目を閉じる。 ああ、本当に、俺はもっと怒ったっていい筈だ。 身体は痛まなくても、今だって思い出すだけで心は軋む。記憶が痛みを訴えてくる。 なのに俺は――――。 それ以上考えることを放棄して、俺はゆっくりと訪れる睡魔に身を委ねた。 携帯が鳴り響く音で目が覚めた。 ベッドから手を伸ばし、サイドテーブルに置いてある携帯を手に取る。 ぼんやりと画面を見ると非通知の文字。時刻は深夜0時過ぎ。 寝入ってからそれ程時間は経っていない。 それよりも、この電話。一気に頭の中がクリアになる。 間違い電話の可能性もある。だが、そうでない可能性も。 こんな非常識な時間に電話を掛けてくる、その相手に今は心当たりがありすぎた。 ごく、と口の中に溜まった唾液を飲み込む。 コール音は既に5回目。6回目が鳴る前に俺は受話ボタンを押し込んだ。 耳に携帯を当てて、相手からの反応を待つ。 確かに繋がっているのに何も聞こえない。 自分から問い掛けるのは面白くなくて、暫く待っていたが状況は変わらない。 確信があった。間違いなく相手はヤマトだと。 ヤマトもちゃんと憶えている。憶えていて、こうして電話を掛けてきた。 喜びはあった。約束通りにまた会えるかもしれないと。だとしても―――。 俺は携帯電話の電源ボタンを押した。通話を切ってやった。 自分から電話を掛けてきたくせに話そうとしないヤマトに腹が立って。 勢いで切ってしまってから数秒、沈黙した携帯電話を眺めて。 ―――やってしまったと、思った。 少なくとも今日は、もう電話してこないだろう。 「………悪いのはヤマトだし」 完全に先ほどの相手をヤマトだと決め付けて、俺はぽつりと呟いた。 携帯を充電器に戻して、枕に顔を埋める。 ヤマトのことだから、また何か違う形で俺に接触してくるだろう。 俺が通話を拒否したことで、二度とヤマトから連絡が来ないかもしれないという不安は感じもせず、 呑気にそんなことを思いながら俺は2度目の眠りに落ちていった。 この選択を、心底後悔する事になるとも知らずに。 <2>へ続く。