その生涯に安らぎを





季節は冬。気温はそう低くはない。 縁側で月を見上げる2人の姿――衛宮切嗣と、その息子になった士郎。 切嗣は穏やかな気持ちで自身を振り返る。 ぽつぽつと士郎と会話しながら。 自分の命が尽きるのを、目前に感じていた。 士郎を残していくのが、心配だった。 5年前の大火災で救った士郎は、切嗣の行為を美化し、正義の味方に希望を抱き、 自分もそうなるのだと疑いもせずにいる。 正義の味方など、どこにもいないのに。 自分はもう、正義の味方などではないのだと、苦笑まじりに士郎に告げた。 正義の味方は期間限定で、大人になるともう、正義の味方ではいられないのだと、ずるい逃げ方をした。 すると士郎は、しょうがないなと小さく笑って、真っ直ぐに切嗣に宣言した。 自分が正義の味方になると。 切嗣の子供じみた、途方もない夢を、受け継ぐと。 ああ、そうか。自分に足りなかったのは、これなのだと切嗣は思った。 士郎はきっと大丈夫だと、無責任にも確信する。 悔いが無いとは言えないが、それでも。 安心した、と心から口にして。 士郎の行く末を見届けることが出来ないのは残念だなぁと、最期にそれだけ胸中で呟いて、 切嗣は静かに目を閉じた。 この身を蝕む『この世全ての悪』からの、ある種の解放。 背負って5年で、切嗣は別れを告げた。 それは自身と世界の切断。 つまり、衛宮切嗣は、士郎に見守られて、永くはないその生涯を閉じた。 …………はず、だった。 切嗣は縁側に腰掛けていた。 まるで、うたた寝から目が覚めたような感覚。 だが、強い違和感がある。自分の存在がこの世界にはありえないもののような。 季節も違うのだろう、肌で感じる空気はあの日よりも暖かい。 庭の植物を目にして、冬ではなく秋のような気がした。 切嗣は自身を確認する。 その身は確かに存在しているようだ。『この世全ての悪』に侵された体。 身に纏うものは、あの日と同じ着慣れた和服。 時刻は深夜か。 口元に手をあてて思案してみたが、答えが出るはずも無く。 あの日と違うことが、もう一つあった。 隣に、息子の士郎がいない。 じゃり。 土を踏む音が耳に届き、切嗣は顔を上げて音がした方向に顔を向ける。 そこには。 まだ距離はあるが、土蔵から出てきたらしい人物が立ち尽くしていた。 赤みがかった髪、強い眼差し。歳は20前ぐらいの少年。 切嗣は気付く。その面影は間違い無く――。 「……士郎?」 名前はするりと口から零れた。 ――――― 日課の鍛錬を済ませた士郎は、土蔵から中庭に出た。 空を見上げると、月が綺麗に見える。 ふいに、5年前のあの日を思い出した。 切嗣が自分の隣で、眠るように逝った日。 何故、今思い出したのか。 季節も違う、命日でもない。 不思議に思いながらも部屋に戻ろうと足を踏み出して ―――それ以上、動けなくなった。 まだ、距離はある。 だが縁側に誰かが座っているのが解った。 こちらを見ている。忘れる筈がない、その顔は、 「……っ、なん で、」 喉がからからで、疑問の声は掠れた。 間違いなくそれは、切嗣だった。 今年の初めに、聖杯戦争という魔術師同士の争いに巻き込まれて、 英霊という存在をサーヴァントとして使役し、なんとか生き延びた。 そんな経験をしたばかりなので(しかも現在進行形でサーヴァントの1人を現界させている) たとえ今、目の前にいる切嗣が、この世のものではないとしても信じることはできるだろうが、 何故、今現れたのかという疑問はまた別だ。 いや、そんな理屈ではなく。 混乱する士郎の耳に、懐かしい、懐かしい声が届いた。 自分の名を呼ぶ切嗣の声。 今まで動かなかった体が、勝手に動き出す。 ゆっくりと切嗣に近付いていく。 切嗣は座って待っていた。 士郎がその手に届く距離に来るまで。 ――――― 縁側に座る切嗣の前に、士郎は立った。 そこからまた、動けなくなって、何かを言うこともできずに切嗣を正面から見つめた。 切嗣も士郎を見上げる。眩しげに目を細めて、 「…でかく、なったなあ。」 感慨深くそう呟いて、柔らかく笑った。 「……じいさんが、縮んだんじゃ、ないのか。」 士郎は目が熱いのを誤魔化す為に、そっけなく答える。 そして確かめる為に切嗣の身体に手を伸ばして、肩に触れてみた。 しっかりと、そこに在る感触。 「なんでさ。」 「さあ、僕にも解らないな。」 士郎の当然の疑問に、緊張感のない切嗣の声が返る。 まるで、夢でも見ているのではないかと互いに思いながらも、それを口にすることは無かった。 仮に夢ならば、認めて、醒めてしまうのがまだ惜しい。 「…僕は、間違いなく死んでいるんだね、士郎。」 「ああ。あれからもうすぐ5年経つ。」 「5年か。どうりで、でかくなってるわけだ。」 「そりゃ、昔と比べたら伸びたけど……もうちょっと、欲しい。」 「はは。」 一度会話が続くと、自然に言葉は次から次へと溢れた。 夢だろうが奇跡だろうが、こうして話せることの幸福。 士郎には切嗣に聞きたいこと、話したいことが沢山あったし、 切嗣も同様に、訊ねたいことはあった。 何から話すべきか、何から訊くべきか。 先に疑問を口にしたのは切嗣だった。 「士郎。何か大きな出来事があったんじゃないか?」 そう訊いたのは、士郎の体内に埋めたアヴァロンが、僅かに反応していることに気付いたからだ。 その事実から導き出される答えは一つだけ。 聖杯戦争。セイバーの存在。 士郎は小さく息を呑み、だがすぐに決心して、深呼吸し、口を開いた。 「数ヶ月前、聖杯戦争っていうやつが起こった。  俺はそれに参加した。じいさんも前回、参加したんだってな。」 士郎は一先ず簡潔にそれだけ言った。 聖杯戦争に関しては、士郎も切嗣に訊ねたいことは山ほどあったが、 今は切嗣の疑問に答えることにしようと反応を待った。 その答えを聞いて、そうかと切嗣は目を閉じ深く息を吐いた。 おそらく自分が原因で、士郎がマスターとして選ばれたのだろうと思うと悔恨の念が溢れてくる。 それと共に安堵も。 数ヶ月前ということは、どのような形にしろ、士郎は無事に聖杯戦争を生き延びたということだからだ。 だが疑問がまた一つ。 聖杯戦争が終わったのならば、今僅かでも士郎の中のアヴァロンが反応しているのはおかしい。 それは、自分達以外に、何者かの気配を家の中から感じることと関係があるのか。 「――士郎が召喚したサーヴァント、もしかしてセイバーかい?」 士郎が自分の参加を知っているということ。アヴァロン。 そこから切嗣は推測して、そう問いかけた。 「ああ。セイバーから、じいさんのことも聞いた。」 あっさりと士郎は答える。 「じゃあ、さっきから此方の様子を窺っているのがセイバーか?  聖杯戦争後もサーヴァントを維持できるとは、俄かには信じがたいが。  それ以前に、アレが留まる理由も理解できないな……いや、僕が忘れているだけかもしれないが。  ………セイバーにしては、どこか気配が違う気も――」 切嗣は半ば独り言のように呟きながら、自らの思考に沈む。 そう、今家の中にある気配は、セイバーとは性質が違うように感じる。 むしろこの感覚は、目の前にいる士郎と酷似しているような。 そんな切嗣に対して、士郎は、どう言ったものかと暫く迷いながらも、順に説明することにした。 おそらく、今話題に上っている人物――現在の士郎のサーヴァントは、ここにいるのが切嗣だと わかった上で、出るに出られないのだろう。 自分以上に、切嗣に対して複雑な想いを抱いているだろうから。 「確かに、俺が召喚したのはセイバーだけど……色々あって、今は違うんだ。  セイバーも現界はしてるけど、マスターは遠坂で――その辺はまたあとで説明する。  とにかく、今、俺が現界させてるサーヴァントは………アーチャー、なんだ。」 士郎はそこまで一息に言った。 「アーチャー、だと?」 訝しげに切嗣が眉を寄せて呟く。 切嗣が知るアーチャーといえば、あの黄金のサーヴァントで。 士郎があのサーヴァントと気が合うとはとても思えない。 切嗣のそんな反応に、士郎は一つ思い当たる。 前回のサーヴァントで『アーチャー』とセイバーが呼んだ存在。 士郎は慌てて付け加えた。 「会えば分かると思うけど、切嗣が知ってるアーチャーとは別だ。」 言って、屋内に呼びかける。 「アーチャー、いるんだろ。観念して出てこいよ。」 僅かな間をおいて、ぎし、と廊下が軋む音と共に、士郎のサーヴァントである男――アーチャーが2人の前に出てきた。 ――――― そろそろ士郎が土蔵での鍛錬から戻ってくる時間。 時刻は深夜0時を過ぎた頃、アーチャーは1つの気配の出現を感じた。 それは突然だった。そして自分はこの気配を知っていると感じる。 『…誰だ?』 内心で呟きながら立ち上がり、気配を感じる縁側へと静かに足を運ぶ。 話し声が聞こえてきた所で、立ち止まった。 いや、足が動かなくなった。 声は2つ。1つは士郎の声。 もう1つは―――――。 摩耗した自身に遙か昔の記憶の声が届く。 「――きり、つぐ。」 混乱する。 何故死んだ筈の人間がここに、という疑問よりも、単純に切嗣がいるということにアーチャーは混乱した。 様々な感情が内より溢れてくる。 英霊になり、守護者という名の世界の奴隷に成り下がり、全てに絶望した時、 切嗣に対しても、恨みや憎しみ、そうした感情に支配されたことが、あったかもしれない。 だが、今その感情は無い。 あるのは戸惑いだ。 切嗣に、こちらの気配を気付かれてはいるだろう。 だが進むことも退くことも出来なかった。 切嗣が自分の正体に気付くかどうかは解らない。自分の姿は変わり果てた。 だから白を切り接することも可能な筈だが、偽ることにも慣れた筈なのに、 今はその自信は欠片も無い。自分はどうしたいのだろう。 そうして立ち尽くすこと数分。 切嗣と話していた士郎の声がアーチャーにかけられた。 固く目を閉じ、拳を握り締めて、アーチャーは覚悟を決めると、足を踏み出した。 視界に2人の姿が映る。 縁側に座る切嗣と、その傍に立つ士郎。 ―――ああ、間違いなく、切嗣だ。 顔を見て、静かにアーチャーは思った。 なんと言葉を紡げばいいのか、結局決めかねた。 白を切ることも、普通に『衛宮士郎』だったころの自分として声をかけることも出来ず、 此方を見上げる切嗣の視線を、ただ、受け止めた。 ――――― 姿を現したアーチャーのサーヴァントは、確かに黄金のサーヴァントとは違った。 切嗣は目の前の男を視る。 服装は現代のものを身につけている。 全身黒。浅黒い肌。髪は白く、鋼色の目で、アーチャーも切嗣を見ていた。 年齢は分かり難い。 切嗣は暫くアーチャーの姿を観察した。 そして、面影は無いに等しいが、内なる気配が、その男が何者であるのかを正しく切嗣に伝えてくれた。 確信する。その男の正体を。 なんと言えばいいのか分からない、複雑な感情が、切嗣を支配した。 「…士郎、彼と2人で話させてくれないか?」 切嗣はそう切り出した。 士郎はその理由をなんとなく悟り、わかったと軽く頷くと靴をぬいで家の中に入り、 居間にいるから、と一言告げてアーチャーの横を通り過ぎようとした。 衛宮士郎、とアーチャーが小声で士郎を呼ぶ。 それに対して士郎は、 「俺がいない方が、腹を割って話せるだろ。こんな機会、きっともう無いぞ。」 そうアーチャーの目を見て言った。 アーチャーは押し黙る。 士郎はとん、とアーチャーの背を手のひらで叩いて、切嗣の方に押しやると、居間へと歩いていった。 そういえば、まだ開けていない茶葉があった。お茶の準備でもして2人がやってくるのを待とう。 そんなことを考えながら。 ――――― 深夜の縁側、切嗣とアーチャー2人きりになる。 2人を静かに照らす月光。 アーチャーは声を出そうとして失敗する。 切嗣はゆっくりと立ち上がると、アーチャーの前に立った。 そして口を開く。 「僕を、恨んだかい?」 その声はそっとアーチャーに問い掛けた。 アーチャーは目を見開き、切嗣を見つめる。 切嗣は困ったように微笑して、佇む目の前の男に話しかける。 「ありがとう、と礼を言うべきなのか、すまない、と謝るべきなのか。  考えてみたけど、僕には解らないんだ。」 「な、にを、言っている……私は」 お前のことなど知らないと、アーチャーが口にする前に、切嗣は告げた。 「士郎、だろう?」 「――っ、」 アーチャーは即座に否定できなかった。それはもう、肯定とかわらない。 「確かに外見は随分変わってしまったみたいだけどね、解るよ。  ……そうか。士郎は、僕なんかよりもずっと、正義の味方として、生きてしまったんだな。  こんな風に変化してしまう程に……それは苛烈な人生だっただろう。」 「切嗣…オレ、は」 切嗣の言葉にアーチャーはうまく答えられない。 自分の感情がコントロールできなかった。 切嗣の『恨んでいるか』という問い掛けに、アーチャーは肯定も否定もできない。 今そのことに関する記録を探すのは困難だった。 はっきりしていることは、切嗣はオレの命の恩人で、焦がれた男で――― いや、それはこの際どうでもいい。 今だから解ることがある。 切嗣を正義の味方と呼ぶと、辛そうに顔を歪ませていたその理由が。 切嗣は何度も言っていたじゃないか。 正義の味方、恒久的な世界平和、そんなものは無いと。 それに耳を傾けずに、『正義の味方』として生きてきたのは、自分の意志だ。 「…オレが、そうなりたいと、自分で決めて生きた結果だ。  だから切嗣がオレの生き様を、気にする必要は無い。」 はっきりと、アーチャーは切嗣に告げた。 負い目など、感じてほしくなくて。 切嗣は目を伏せて、そうかと一言だけ口にした。 恨み言一つ自分に言わないアーチャー…士郎に、変わらず優しい子だなと切嗣は思った。 だからこそ、彼の人生を歪ませてしまったことが悔やまれるが、今更言っても意味の無いことでもある。 自分のそうした気持ちは一度心の奥に押し込めて、改めて目の前の男を見た。 現在の士郎よりも成長した姿。背丈は切嗣を追い抜き、肉体は鍛え上げられている。 もう彼は、自分の記憶にある小さな子供ではない。1人の自立した男だ。 そう理解してはいたが、切嗣は、かつてあまりしてやれなかったことを、 今の士郎に、アーチャーにしたいと思った。 一歩足を踏み出して、距離を縮める。 そして様子をうかがうようなアーチャーと視線を合わせて、 「抱いてもいいかい。」 切嗣はそう言った。 アーチャーは、何度目になるのか、息をのむとまた固まってしまっている。 声をかけてから困らせてばかりだなと切嗣は内心で苦笑しながらも、 返答が無いのをいいことに、さらに距離を詰めて。 両腕を立ち尽くす男の背に回して、抱きしめた。 「でかくなったな、士郎。」 先程士郎へ告げた言葉を、目の前のアーチャーというサーヴァントとして存在している、もう1人の士郎にも告げる。 そうして、ぽんぽんと軽く背を叩いて、腕を上げ、頭を何度か撫でた。 突然、抱いてもいいか、などと言われてアーチャーは再び固まった。 そして思考が正常に動き出す前に、切嗣は間合いを詰めてきて。 腕が回され、抱きしめられた。 ああ、覚えている煙草の匂いがする。 自分よりも小さな身体に目頭が熱くなる。 でかくなったなと声をかけられて、背を幼子をあやすように叩かれて、頭を撫でられて。 一筋、目尻から頬を伝って流れた涙を隠すように、アーチャーは切嗣の肩に顔を埋めて、目をきつく閉じた。